病気なんてかかってない・・・そう思ってた [ひとりごと]
「昔、ココにアレができちゃってさー、ネットで検索したらおんなじ悩みを持つ人を発見していろいろ参考になったのよねー」といった趣旨のメールを頂戴した事がある。
ごく日常的な会話の断片だ。正しいネットの使い方したね、と私はさりげなくフォローをいれておいた。
使い方次第で毒にも薬にもなる。
今のポータルサイトの出来は当初軍事目的で使われていたそれとはまったくもって変わってしまった。
地元の図書館も閑静になってきているだろう。
今日、ひょんな事で自分の悪癖を携帯から検索してみた。
しかしその悪癖は自分の予想を遥かに超えるものだった。
”抜毛症”・・・精神疾患の一つで脱毛症とは違い、髪の毛が抜け落ちるのではなく、自分で抜き取ってしまう病気。そう、病気。
まさかだった。わりかし健康だと言い張る自信があった自分が、病気だったんだと。
推測ではあるが、中学校の頃から始まっていた髪の毛を抜く癖は抜毛症だったのだ。
ショックだった。なぜ今までそれが病気だと気づかなかったのだろうか。
因みに自分が産まれた時の体重は1890g。母は喫煙者であったため、当時胎児だった自分にもその影響は出た。それが低体重出産で未熟児という顛末だ。
自分の考えすぎなのかもしれない。でもしかしそういう検索結果なのだからきっとそうなのだろう。
精神的な病気であるのでもちろん表面的な健康診断で明るみに出るはずもない。
検索するとやはり治したいという人がいた。自分より症状がひどい人もいた。
悩んだり不安を抱えているうちに既に抜き取ってしまっている人もいる。
これにおいては診断するまでもない。向き合って克服してみせる。
これは強い人間になるための一つの階段の入り口なのだと解釈してねじ伏せてみせる・・・!
ごく日常的な会話の断片だ。正しいネットの使い方したね、と私はさりげなくフォローをいれておいた。
使い方次第で毒にも薬にもなる。
今のポータルサイトの出来は当初軍事目的で使われていたそれとはまったくもって変わってしまった。
地元の図書館も閑静になってきているだろう。
今日、ひょんな事で自分の悪癖を携帯から検索してみた。
しかしその悪癖は自分の予想を遥かに超えるものだった。
”抜毛症”・・・精神疾患の一つで脱毛症とは違い、髪の毛が抜け落ちるのではなく、自分で抜き取ってしまう病気。そう、病気。
まさかだった。わりかし健康だと言い張る自信があった自分が、病気だったんだと。
推測ではあるが、中学校の頃から始まっていた髪の毛を抜く癖は抜毛症だったのだ。
ショックだった。なぜ今までそれが病気だと気づかなかったのだろうか。
因みに自分が産まれた時の体重は1890g。母は喫煙者であったため、当時胎児だった自分にもその影響は出た。それが低体重出産で未熟児という顛末だ。
自分の考えすぎなのかもしれない。でもしかしそういう検索結果なのだからきっとそうなのだろう。
精神的な病気であるのでもちろん表面的な健康診断で明るみに出るはずもない。
検索するとやはり治したいという人がいた。自分より症状がひどい人もいた。
悩んだり不安を抱えているうちに既に抜き取ってしまっている人もいる。
これにおいては診断するまでもない。向き合って克服してみせる。
これは強い人間になるための一つの階段の入り口なのだと解釈してねじ伏せてみせる・・・!
流行は「生む」のか「作る」のか [コラム的なもの]
久々の「コラム的なもの」。ちょっと違和感を禁じえないので書き綴りたいと思います。
様々な年齢層の方々が集うこういう場所にとって、時代の変遷と共に語るのは私的には面白い事だと思っていますので難なく書いていきます。
が、今回は(も、と言ったほうがいいか)ぶった斬る事物がございます。
毎日テレビで流れる某グループ、ケータイ小説、そしてそれらに関与する方々は素直に「戻る」ボタンを押していただけますようお願いします。記事を見た後のクレームは受け付けません。ご了承を。
では本題。
昔、織田裕二扮する青島刑事が言った名言がある。
「事件は会議室で起きてんじゃない。現場で起きてんだ!」
そして昔のブームもニュアンスとしては近かった気がする。
日本の末端から中央に押し寄せてきた一つの小さなうねりを感じた記者がそれを流行りと唱え報道する。
そしてそれに染まる派と染まらない派に別れ、まさしく現場で、外で起きていた事だった。
しかし今の流行にはどうも腑に落ちない。扇動的とも感じる時もある。
私的に言えば昨今の流行とは無縁だった事もあるかもしれない。しかし興味が沸かない。
で、その興味が沸かない人間をどうすれば動かすのかというと大々的な宣伝だ。
つまり先の例を挙げれば会議室で流行を作る。
結論を言うとメディアが勝手に作り出しているような錯覚を覚え始めたのは最近のことだ。
無関心を続ける人間に、こんなのがブレイクしていると報道することであたかもそうであるかのように見せる。
そしてその先にはビジネスがある。それがたとえ悪い方向であっても、だ。
残念ながらその手には乗らないのである。具体例を挙げれば韓流も48人も興味ないままだ。
ここで支持層、ターゲット層をある程度絞っていることに着目するとまあ大体貧富でいえば富の方だと思われる。
しかしながら韓流の事は詳しく知らないのであまり言えた口ではない。何せ母と一緒に「宮廷女官 チャングムの誓い」を見ていた時期があったので。
諸葛孔明が策案したとされる饅頭の由来や高級食材に勝つ対策としてあくまで広く流通している庶民色で勝負する試みや食する人間の好みに合わせる作法など、何かと参考になる部分もちらほら見かけており、今まで見たドラマの中では女同士の確執は捨て置いても見るに値できる部分があった。
しかし後者の方はいかんともしがたい。なぜかと言うと、ファンがダメだ。
ここからはメディア関連にする。
私的意見では、売れてるか売れてないか以前に、ファンを見れば分かるものがある。
後者の場合、警察袈裟にまでなっているファンがいる時点で気になるはずもない。
yahoo!ミュージックなどではオリコンチャートに名前が挙がるようなアーティストに関して言えば、インターネットという公共の場所でギャル文字(例:「ゎたUは」わたしは)が書かれる光景を見ることがある。
こういった頭のネジがすっぽ抜けてしまったファンを持つ作家というのは、どうも受け付けがたく、残念なのである。
かえってテレビに映らずに賢明に活動なさっている人の方がクオリティが高いのはザラである。その場合、公共のレビューサイトでもしっかりとしたレビューがなされているのである。そういう文字列は見ていて清々しいものだ。
まだこれは可愛い方だ。上がいる。
昔、ケータイ小説たるものがもてはやされた時期があった。読んで字の如く、携帯電話で小説を執筆するのだそうだ。手軽さがウリでやけに爪が長そうな方々が読みそうな物だ。
某ケータイ小説は映画化もされている。ここでは新垣結衣が主演をした(もちろんここまでバッシングするからには見ていない)某ケータイ小説を例にとってみる。
その作品の著者のファンと名乗るブログからはそのケータイ小説の著者とそのモデルとなった彼氏の写真が無断でアップロードするという暴挙があった。
モラルも何もあったもんじゃない、ギャル文字なんて重箱の隅レベルで、肖像権の侵害にあたる立派な犯罪を澄ました顔でやっているのだからそのブログはリアルタイムで閲覧していた方々により瞬く間に炎上した。自分も丁度、その瞬間に立ち会った事がある(画像は消した後だったのでよかったが、その後あらゆるネタ系サイトで転載されてしまった)
果たしてそれがファンのする事なのだろうか?入手経路等はともかく自称ファンを名乗る人間がやっていい問題ではないのは明らかだ。一部、善悪の区別も付かない人間がファンだったのである。
おそらく、その著者が当時「実話を元に」と言っていたのだからもっとよく知ってほしい狙いがあったのか設定資料のような趣でやったのではないかと推測されるものの、やはり道徳に反する行為である。
因みに当時ネタにはなるだろうと思ってわざわざ魔法のiランドまで行って見たものの、出だしの一行目から失せてしまった。文学と呼べる代物ではなかったし、作中でもモラルの欠如(高校生の喫煙、強姦、妊娠、自転車の二人乗り、無菌室で接吻など)やイベント続きで間に挟まれる描写がないものだった。これならまだライトノベルの方がマシだ。
この一件で、ケータイ小説のファンにはろくなのがいない、と固定概念が生まれてしまった。たとえ瀬戸内寂聴がケータイ小説をやっていても、だ。
そしてその中身が知れ渡る事により悪影響を与えると分かっていた人間がいたのにも関わらず映画、ドラマにまで引き伸ばされてしまったのは残念で仕方ないものの、そこにも汚金ははびこっていたのだと思うとなんとも居た堪れない。
私はこの一作で、少女マンガの内容を激変させる先駆けになったのではないかと感じずにはいられない。
今の少女マンガは昔の「ときめき」と言った様なプラトニックなものではなく無駄に淫らな描写が描かれており、女性が性商品として認定される時代が再度引き伸ばされてしまった。この解釈でいくと小学生が禁じられた遊びを犯すのも時間の問題だ。既にそのケータイ小説が世に出てしまってまもなく、そんなことがあったのだ。
しかしそれも手遅れで、今検索すると小学生が妊娠とか・・・善悪という概念を捨てて己が利益しか考えていない一部の人間の愚考によって歪んだ解釈を持つ人間が現れ犠牲になった人は数知れない。
残念な事にこれが現実なのである。腐ってもすぐ封印するのではなく、それを悪だと進言できる人はいても目立たなかったのもあるし、善悪の区別が付かない人々の手が届く位置にまで降りてしまったものは二度と浮上しなかった。
そして某グループの話に移る。
正直要らない。私は俗に言う美少女オタクに対するアンチテーゼという名目で現実世界にその世界観を持ってきたものではないか、と解釈している。薄暗い部屋の中でニヤニヤしているだけでは金は生まれない。それに対する対抗馬ではないかと。
残念ながら歌手ではない。ステッカー入りのCDが販売される。ステッカーだけ抜き取る。CDは大量に中古品として陳列される。そんな事もあり、支持層としては歌唱力というよりルックスしか見ていないだろう。
公式サイトでは子作りジェネレータという究極の無駄ツールがある。しかも有料。
1500円ほど支払えば、送った主の写真と選んだ人間を合成してその結果産まれるとされる「赤ん坊」を送付するらしい。課金制度はここまで進化した。で、果たして意味あるのか?
こういった、酔狂で、内向的で、妄想に走らせる人間を増やして本当に事件が起きたら誰が責任を取るのだろうか?
この某グループの件に関しては嘗てのジョン・レノンの悲劇と同じケースに陥らないことを祈るばかりだ。
アイデンティティはしっかりと。善悪を見据えた上で傀儡に操られない術を身に付けておきたい。
なんか、タイトルとはえらく筋が変わってしまいましたがすみませんでした。
様々な年齢層の方々が集うこういう場所にとって、時代の変遷と共に語るのは私的には面白い事だと思っていますので難なく書いていきます。
が、今回は(も、と言ったほうがいいか)ぶった斬る事物がございます。
毎日テレビで流れる某グループ、ケータイ小説、そしてそれらに関与する方々は素直に「戻る」ボタンを押していただけますようお願いします。記事を見た後のクレームは受け付けません。ご了承を。
では本題。
昔、織田裕二扮する青島刑事が言った名言がある。
「事件は会議室で起きてんじゃない。現場で起きてんだ!」
そして昔のブームもニュアンスとしては近かった気がする。
日本の末端から中央に押し寄せてきた一つの小さなうねりを感じた記者がそれを流行りと唱え報道する。
そしてそれに染まる派と染まらない派に別れ、まさしく現場で、外で起きていた事だった。
しかし今の流行にはどうも腑に落ちない。扇動的とも感じる時もある。
私的に言えば昨今の流行とは無縁だった事もあるかもしれない。しかし興味が沸かない。
で、その興味が沸かない人間をどうすれば動かすのかというと大々的な宣伝だ。
つまり先の例を挙げれば会議室で流行を作る。
結論を言うとメディアが勝手に作り出しているような錯覚を覚え始めたのは最近のことだ。
無関心を続ける人間に、こんなのがブレイクしていると報道することであたかもそうであるかのように見せる。
そしてその先にはビジネスがある。それがたとえ悪い方向であっても、だ。
残念ながらその手には乗らないのである。具体例を挙げれば韓流も48人も興味ないままだ。
ここで支持層、ターゲット層をある程度絞っていることに着目するとまあ大体貧富でいえば富の方だと思われる。
しかしながら韓流の事は詳しく知らないのであまり言えた口ではない。何せ母と一緒に「宮廷女官 チャングムの誓い」を見ていた時期があったので。
諸葛孔明が策案したとされる饅頭の由来や高級食材に勝つ対策としてあくまで広く流通している庶民色で勝負する試みや食する人間の好みに合わせる作法など、何かと参考になる部分もちらほら見かけており、今まで見たドラマの中では女同士の確執は捨て置いても見るに値できる部分があった。
しかし後者の方はいかんともしがたい。なぜかと言うと、ファンがダメだ。
ここからはメディア関連にする。
私的意見では、売れてるか売れてないか以前に、ファンを見れば分かるものがある。
後者の場合、警察袈裟にまでなっているファンがいる時点で気になるはずもない。
yahoo!ミュージックなどではオリコンチャートに名前が挙がるようなアーティストに関して言えば、インターネットという公共の場所でギャル文字(例:「ゎたUは」わたしは)が書かれる光景を見ることがある。
こういった頭のネジがすっぽ抜けてしまったファンを持つ作家というのは、どうも受け付けがたく、残念なのである。
かえってテレビに映らずに賢明に活動なさっている人の方がクオリティが高いのはザラである。その場合、公共のレビューサイトでもしっかりとしたレビューがなされているのである。そういう文字列は見ていて清々しいものだ。
まだこれは可愛い方だ。上がいる。
昔、ケータイ小説たるものがもてはやされた時期があった。読んで字の如く、携帯電話で小説を執筆するのだそうだ。手軽さがウリでやけに爪が長そうな方々が読みそうな物だ。
某ケータイ小説は映画化もされている。ここでは新垣結衣が主演をした(もちろんここまでバッシングするからには見ていない)某ケータイ小説を例にとってみる。
その作品の著者のファンと名乗るブログからはそのケータイ小説の著者とそのモデルとなった彼氏の写真が無断でアップロードするという暴挙があった。
モラルも何もあったもんじゃない、ギャル文字なんて重箱の隅レベルで、肖像権の侵害にあたる立派な犯罪を澄ました顔でやっているのだからそのブログはリアルタイムで閲覧していた方々により瞬く間に炎上した。自分も丁度、その瞬間に立ち会った事がある(画像は消した後だったのでよかったが、その後あらゆるネタ系サイトで転載されてしまった)
果たしてそれがファンのする事なのだろうか?入手経路等はともかく自称ファンを名乗る人間がやっていい問題ではないのは明らかだ。一部、善悪の区別も付かない人間がファンだったのである。
おそらく、その著者が当時「実話を元に」と言っていたのだからもっとよく知ってほしい狙いがあったのか設定資料のような趣でやったのではないかと推測されるものの、やはり道徳に反する行為である。
因みに当時ネタにはなるだろうと思ってわざわざ魔法のiランドまで行って見たものの、出だしの一行目から失せてしまった。文学と呼べる代物ではなかったし、作中でもモラルの欠如(高校生の喫煙、強姦、妊娠、自転車の二人乗り、無菌室で接吻など)やイベント続きで間に挟まれる描写がないものだった。これならまだライトノベルの方がマシだ。
この一件で、ケータイ小説のファンにはろくなのがいない、と固定概念が生まれてしまった。たとえ瀬戸内寂聴がケータイ小説をやっていても、だ。
そしてその中身が知れ渡る事により悪影響を与えると分かっていた人間がいたのにも関わらず映画、ドラマにまで引き伸ばされてしまったのは残念で仕方ないものの、そこにも汚金ははびこっていたのだと思うとなんとも居た堪れない。
私はこの一作で、少女マンガの内容を激変させる先駆けになったのではないかと感じずにはいられない。
今の少女マンガは昔の「ときめき」と言った様なプラトニックなものではなく無駄に淫らな描写が描かれており、女性が性商品として認定される時代が再度引き伸ばされてしまった。この解釈でいくと小学生が禁じられた遊びを犯すのも時間の問題だ。既にそのケータイ小説が世に出てしまってまもなく、そんなことがあったのだ。
しかしそれも手遅れで、今検索すると小学生が妊娠とか・・・善悪という概念を捨てて己が利益しか考えていない一部の人間の愚考によって歪んだ解釈を持つ人間が現れ犠牲になった人は数知れない。
残念な事にこれが現実なのである。腐ってもすぐ封印するのではなく、それを悪だと進言できる人はいても目立たなかったのもあるし、善悪の区別が付かない人々の手が届く位置にまで降りてしまったものは二度と浮上しなかった。
そして某グループの話に移る。
正直要らない。私は俗に言う美少女オタクに対するアンチテーゼという名目で現実世界にその世界観を持ってきたものではないか、と解釈している。薄暗い部屋の中でニヤニヤしているだけでは金は生まれない。それに対する対抗馬ではないかと。
残念ながら歌手ではない。ステッカー入りのCDが販売される。ステッカーだけ抜き取る。CDは大量に中古品として陳列される。そんな事もあり、支持層としては歌唱力というよりルックスしか見ていないだろう。
公式サイトでは子作りジェネレータという究極の無駄ツールがある。しかも有料。
1500円ほど支払えば、送った主の写真と選んだ人間を合成してその結果産まれるとされる「赤ん坊」を送付するらしい。課金制度はここまで進化した。で、果たして意味あるのか?
こういった、酔狂で、内向的で、妄想に走らせる人間を増やして本当に事件が起きたら誰が責任を取るのだろうか?
この某グループの件に関しては嘗てのジョン・レノンの悲劇と同じケースに陥らないことを祈るばかりだ。
アイデンティティはしっかりと。善悪を見据えた上で傀儡に操られない術を身に付けておきたい。
なんか、タイトルとはえらく筋が変わってしまいましたがすみませんでした。
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲/シューマン:交響曲第四番 [CDれびゅ~]
みなさまお久しぶりです。
最近前歯の詰め物が欠けてしまって歯が沁みるので詰め物を削って再度詰める、という作業を頼んで参りました。
その欠けた部分は汚れてまして、あまり笑えない状況でしたが、先生に診てもらって、「虫食ってますねー」と言われたときはショックであります。
みなさまも歯は大事にしましょう。
本題。
曲目:
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.77
シューマン:交響曲 第4番 ニ短調 Op.120
ファビオ・ルイージ/ウィーン交響楽団
アラベラ・美歩・シュタインバッハー(vn)
すさまじい眼力ですね。
このアラベラ・美歩・シュタインバッハーという人は名前の通りハーフでドイツ人の父親と日本人の母親との間に生まれた方で、まだ三十代に突入したばかりとこれからの活躍に期待できる方ですね。
まだディスクグラフィーは10枚ほどしかないが、協奏曲が多い模様。
正直、目的だったのはシューマンの4番。なんとこれは同レーベルの全曲集からの抜粋だったんだとか。
肝心のブラームスの方はというと、交響曲というイメージからかけ離れた印象ですね。
まだまだ聴き慣れていないというのが現状ですが、中々面白い一枚だったので記載しました。
最近前歯の詰め物が欠けてしまって歯が沁みるので詰め物を削って再度詰める、という作業を頼んで参りました。
その欠けた部分は汚れてまして、あまり笑えない状況でしたが、先生に診てもらって、「虫食ってますねー」と言われたときはショックであります。
みなさまも歯は大事にしましょう。
本題。
曲目:
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.77
シューマン:交響曲 第4番 ニ短調 Op.120
ファビオ・ルイージ/ウィーン交響楽団
アラベラ・美歩・シュタインバッハー(vn)
すさまじい眼力ですね。
このアラベラ・美歩・シュタインバッハーという人は名前の通りハーフでドイツ人の父親と日本人の母親との間に生まれた方で、まだ三十代に突入したばかりとこれからの活躍に期待できる方ですね。
まだディスクグラフィーは10枚ほどしかないが、協奏曲が多い模様。
正直、目的だったのはシューマンの4番。なんとこれは同レーベルの全曲集からの抜粋だったんだとか。
肝心のブラームスの方はというと、交響曲というイメージからかけ離れた印象ですね。
まだまだ聴き慣れていないというのが現状ですが、中々面白い一枚だったので記載しました。
テレマン:ターフェルムジーク(抜粋) [CDれびゅ~]
曲目:
第2集から 管弦楽組曲(序曲) ニ長調
第2集から 協奏曲 ヘ長調
第1集から 四重奏曲 ト長調
第1集から ソロ・ソナタ ロ短調
第2集から 終曲 ニ長調
フランス・ブリュッヘン/アムステルダム合奏団
今では同世代の作曲家、大バッハ、ヘンデルにお株を奪われているが、存命当時は凄まじい人気と知名度を誇っていたテレマンを代表する曲。
ではなぜ当時彼らより人気があったのに、大バッハやヴィヴァルディと「楽聖」(音楽室に肖像画として飾られている人々)にならなかったのかは謎である。
とりあえずトッカータ小フーガ、四季、オラトリオ「メサイア」を聴けばバロック音楽の頁は終わり、と簡潔的な教材故だろうか。
1732年ハンブルクの新聞に出された広告に次のような文がある。
「音楽愛好家へのお知らせ。来たる1733年に《ターフェルムジーク》と名づけられる、テレマン作の大きな器楽曲の出版が待たれます。そこには7つの楽器の組み合わせと言う大編成の作品が9曲、1、2、3~4までの小編成の楽器による器楽曲がやはり同数含まれます。作品は昇天祭、ミカエル祭、クリスマスと3ヶ月ごとに発刊されますのでご予約ください。予約者一覧表は、楽譜と共に印刷されます。」
そうして国内外からの予約は186人、206部に及んだ。
その中には前記したヘンデル、パリの名フルート奏者M、ブラヴェ、ドレスデンで活躍するヴァイオリニスト、ビゼンデルやフルート奏者のクヴァンツなど、当時の名だたる音楽家の名前が列挙されたのである。
テレマンの音楽はこの時代から、音楽を宮廷や教会の束縛から解き放ち、より一般の市民生活にも根ざすものとするための原動力になった。一般市民が楽譜を入手するのに困難な状況を知って自身が発行元となって47点もの自作を出版にこぎつけた。
当時のテレマンの人気のひとつはもっと多くの人に楽しんで欲しいという精神の賜物だったのかもしれない。
大バッハのようなコテコテの宮廷作家でもなく、後世のベートーヴェンのように己の自己主張のために書いた訳でもないその絶妙な立ち位置が支持されたのだろうか。
ターフェルムジークとはフランス語で「食卓の音楽」と名づけられている。本来王侯貴族や市の参事会員が食事をも含めて楽しい一時を持つために、生活に書かせぬ部分を形成するものだった。
簡単に言えば、聴くと消化にいいとされ、元々貴族の晩餐会のBGMとしての機能を持っていたモーツァルトの作風にも通ずるところがある。
しかし残念ながらチョコレートにテレマンの顔は彫られていないし、テレマンという名を冠した日本酒もないのである。そしてテレマンの同曲が消化を助ける働きがあるのかどうかも謎だ。テレマンもまた楽聖に埋もれた逸材としての解釈がなされるだろう。
(モーツァルトの場合は彼の顔が彫られたチョコレートは実在するし、モーツァルトの曲をたんまり聴かせて旨みを利かせた、とされる日本酒もある)
最初の管弦楽組曲がいかにもバロックな旋律でこの一枚の中では特別好きなのだが、技巧としてはこの時代の例に漏れずかなりシンプルで平滑的に流れ去っていくのが特徴である。むしろ快活にも思えるそれは楽器選択に幅を与えたり、無理のない音の動きを利用したことが成功した要因となったのも納得がいく。
「バロック音楽の百科全書」と呼ばれるこの大傑作、紹介したこの一枚は選集ではあるが野口さん一人で購入可能。以前紹介した中南米のギター音楽(http://mirror-channel.blog.so-net.ne.jp/2011-10-24)のワーナーの「BEST 50 MORE」の一環である。
東京フィルハーモニー交響楽団演奏会 [コンサート記録]
曲目:
スメタナ:連作交響詩「我が祖国」より”モルダウ”
ドップラー:ハンガリー田園幻想曲op.26 さかはし矢波(fl)
チャイコフスキー:ロココ風の主題による変奏曲op.33 宮田大(vc)
アンコール・滝廉太郎:荒城の月(宮田大)
ドヴォルザーク:新世界交響曲
井崎正浩/東京フィルハーモニー交響楽団
どれほどこの日を待ち侘びていただろうか、遂にやって来ましたこの日が。
新世界以外は知らない曲でしたが、意欲的なプログラムだったと思います。ソリスト二人という仕様もいい。
こんなことを書きつつも、最初のモルダウはすぐアハ体験できました。
今思うと、当時の中学の教材のトップを飾ってる曲でしたね。
私にとってはスメタナ=わが生涯なのですが・・・
続く2人のソリストによる演奏も予想通りヴィルトゥオジティ全開の演奏でした。
流石にこのレベルだと一切の狂いもない。流石です。
やはり聴いたことのない曲を生で聴くというのは中々歯がゆいものがあります。
フルートの方もすごかったがチェロもそれに勝るとも劣らず。
ヴァイオリンかと思えるほどの弾き鳴らしには圧巻しましたね。中々面白いプログラムでした。
アンコールの荒城の月も、弦楽器が持つ憂いを帯びた旋律を巧く引き出した小品でした。
ただ弦を下ろした瞬間の静寂に響いた咳が非常に残念でした。
そして休憩を挟んで新世界。スメタナの時からそうだが弦楽器と木管のコンディションがすこぶるいい。一小節の、韻を踏むようなテンポの落とし方なども独特で、意識しているなと止まない印象を受ける。
第二楽章の「家路」が特にそれが鮮明だったと思う。帰る場所があるという事が日常的でありながらどれほど大切な事か身に沁みる・・・
このファゴットのソロによる旋律はスーパーなどで閉店間際に流れる古関裕而編曲の「別れのワルツ」のポジションに近い。
実際、この「家路」は地元の自動車教習所の閉所間際に流れている。しかし本日ではその意を介さないものだった。
金管のやっつけ的な音色がやや不満要因ではあったがそれ以外は良好だった。
ここまでくると第三楽章、第四楽章も熱情に満ちた芸術性の高い名演に相当しただろう。
残念だったのはやはり咳の多さ。携帯電話こそ鳴らなかったもののパンフレットの音やアメ・ガムの包み紙の音も聞こえた。
所詮栃木の聴衆はこんなものか・・・
さらに残念なのは新世界のプログラムノートがウィキペディアのコピペだった事。
ハンガリー田園幻想曲ではさかはしさんのオリジナルの注釈が添えられていたのはよかったが、これがアマチュアオケなら奏者の独特のプログラムノートが見所の一つだっただけにこれは遺憾だ。
あれ?昨日見た奴と文体がやけに似ていると思ったら案の定瓜二つでした。
今日もすごかったなあいいもの聴けたなあと鳴り止まぬ拍手に合わせているとやはりそそくさと客席を離れる人がいたのは残念で仕方がない。
しばらくすると指揮者の井崎さんがマイクを持って現れた。
「普段ならアンコールといきたい所なんですが・・・」の冒頭で語られたのはやはり意識していただろう震災の件だ。音楽家として出来ることとは何か―それについてはずいぶんとお悩みになられたようで、幾ら私たち演奏家が彼らのために精一杯演奏した所でお亡くなりになられた方が生き返る事も、家がすぐ元に戻るわけでもないと語っていたのは一般人ではない人の葛藤なんだと思う。
そして演奏されたのは「ふるさと」。皆さんもご唱和お願いします・・・という井崎さんのお願いによって実現したのは2000人の合唱である。
プログラムノートの裏になぜ歌詞が載っていたのか謎が解けた。
音痴ですが何とか歌いました。
正直この「ふるさと」が一番心に沁みました。オケと指揮者との一体感・・・こういうことだったのか、と。
皆が皆今日という日を意識していたのだと。
三番まで歌い終えた後、立ち去りがたい雰囲気を一片感じた気がしました。
照明が点くまで惜しげない拍手に包まれました。
ホールから出てきた私は、一般人の自分に出来る事はあの箱に金一封を添えるしかないと思った。
私も入れてきました。曲や金で生き返ったり元通りの土地に戻せることはない。
ですが生き残った人間ができる事が何もないわけではない。義援金しか手立てがないのなら、それに懸けようと。
あの「ふるさと」は、天上の被災した方々に届いているだろうか・・・
開場時には晴れていたのに、ホールから出ると夕立ちに見舞われました。
帰路は確かに危ないものとなりましたが今思えばそれは返事が返ってきたみたいで、(連日雲行きは怪しかったが)慈雨だったのではないかとどこか哀愁や疎外感を禁じえない。
ベルリオーズ:幻想交響曲 [CDれびゅ~]
中には20枚超の同曲を持っている方もいるのではないでしょうか。
いわば名曲。このブログでは珍しくメジャー曲をレビューだと思います。
大抵の作曲家は演奏家も兼ねることが多い。しかしベルリオーズは違った。後に指揮者にはなったものの満足に引ける楽器がまったくなかった。
幼少時にフラジョレットやギターを弾いたことはあるもののその技量はお世辞にも上手くなかった。周囲のピアノすら弾けないのか、という言葉に対して「ピアノという楽器に束縛されるとかえって自由に作曲ができないことに気づいていないのか」と言い返した。
そして極めつけは先人の音楽に対して無頓着であったという事。厳密に言うとバッハやモーツァルトといった古典派の作曲家をあまり尊敬せず、どれも同じように聴こえたらしい。
それがどう繋がったというと、かの「第九」からわずか6年後に作曲された私小説的な要素を交響曲という形式に織り込んだこの曲は時代を大きく変えることになる。彼の独特の技法は彼自身の音楽理論の欠如と当時までに存在していた音楽に対しての模倣の回避などによる前衛的で異端な彼自身の法則によってもたらされたのである。
標題音楽を代表する本作であるが、これは一人の女優との出会いをきっかけにうまれた曲である。
初演の2年前にパリのオデオン座で行われたシェイクスピアの演劇に出演していた当時の人気女優ハリエット・スミッソンに一目ぼれしたことから始まる。
しかし対して名声のない作曲家に対してあっさり振り返ってくれる訳ではなく一方的なアプローチと化してしまう。
何度もスミスソンに手紙を送り、次第にスミッソンはおびえるようになってしまう。
劇場で男優との抱擁シーンなどになると客席から大きな奇声を発したりと非常識な感情をぶちまけていたこともあり気味悪がれた。
そんな中「失恋した若い芸術家(自分に喩えて)が自殺を企ててアヘン自殺を図ろうとするも致死量が足りず未遂に終わり、奇妙な幻想を見る」という現在にあたる標題音楽を書き上げた。
そのエピソードでは夢を見るも遂に恋人を殺してしまって、自分もギロチンにかけられてしまう。そして「怒りの日」という題のグレゴリオ聖歌の旋律が現れ、自分の葬儀に参列した魔女やらなにやら出てきて仕舞いには殺めたはずの、落ちぶれた恋人を見る。そして異常な興奮と発狂の頂点でコーダを迎える。
というのは聴き馴れた人であれば誰でも知っているのではないでしょうか。
初演後はロシア皇帝のニコライ1世に献呈されている。
そして1833年に憧れのスミッソンと結婚した。
ここまでだったら口元を綻ばせて「やったじゃん!」と言えるだろう。人によってはサクセスストーリーともなりえるかもしれない。
しかし幻想は幻想のまま、美しい姿のまま彼の心の中で生き続けていた方がよかったのかもしれない。
ベルリオーズは、あくまでオフェリアやジュリエットを熱演したスミスソンに惚れていたのであって、実生活でのスミスソンとのギャップに醒めてしまい、かつての熱情は色褪せてしまった。
結婚して10年経って遂に別居。時期的には定かではないがスミッソンは酒びたりの日々を送り、短い生涯を終えてしまいました。
彼女を埋葬して7ヶ月後に再婚。
と、数枚のライナーノーツを見て概要を説明しましたが、違うところがあったら教えてください。
この曲の所持数は8枚。とはいえ中古で手当たり次第に買ったものがほとんどであり、思い入れのないものもあります。
因みに持っているのを載せるとこうなります。浅知恵とお笑いになって結構です。中にはAmazonで拾いきれないものもあります。
広上淳一/RPO(DENON)
コシュラー/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(DENON)
ムーティ/フィラデルフィア管弦楽団(EMI)
レヴァイン/BPO(Grammophon)
ミュンフン/パリ・バスティーユ管弦楽団(Grammophon)
ミュンシュ/BSO(BMGビクターのRCA GOLDSEAL)幻想は1962年ものでカップリングのローマの謝肉祭は1958年もの
これらは一回聴いて押入れ行き・・・困ったものです。よく考えて購入すべきだと思いましたが当時まだ高校生。
本命で買ったのはこれぐらいです(笑)
思わず初回版で買ってしまった。ゴールドディスクがまぶしい。
予想通りゲルギエフなので濃い。やはり好みが分かれる演奏だがこの盤を聴くにあたってモティーフになったスミッソンは美女ではなかったのかなと思わせる。かといってハルサイで見せた野蛮ぽさはそれほど見受けられない。
やたらギラギラしているがクライマックスはまさに圧巻。
蛇足にこの盤の批評家は宇野功芳さんではないため通販サイトのようなやたら押してくるビジネスライクな解釈ではないためライナーノーツも読みやすくあっさりしている。
次いで特徴といえばカップリングが王道のローマの謝肉祭ではなくオリガ・ボロディナ(Ms)を加えた叙情的情景<クレオパトラの死>だろう。
8曲のカンタータの5番目にあたり、「エルミニー」がローマ大賞で2位だったため、大賞受賞のために作曲された。幻想交響曲の前の1829年に作曲された。
しかし結果は失敗。感情露出の激しさや毒蛇を用いて絶命する場面といった過激な要素は当時の保守的な審査員を顰蹙させたとも言われている。
続いてガーディナーの幻想。1991年パリ旧音楽院での録音で、廉価版を所持。
ガーディナーがこのオルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティークを設立する際に、1830年代にパリで活躍したパリ音楽院のオーケストラを一つの基準、あるいは遠い祖先として考えていたという。
アブネックという指揮者が作り上げたこのパリ音楽院のオーケストラは当時のフランスで始めてベートーヴェンの9つの交響曲をすべて演奏した団体で、アブネックはリハーサルに膨大な時間を割いて、何年もかかって全9曲の演奏を成し遂げた。
いってみればガーディナーは自身の団体をアブネックのそれになぞらえることで、ある意味では末裔的な精神に一旦差し替えて決定的に納得のいくまでリハーサルを重ねて、音楽を磨き上げることを目指したといってもいい。
兆度アブネックがフランスで奮闘努力しているときにドイツで目覚しい活躍をしていたのがメンデルスゾーン。
他の盤では聴きなれない音が随所に見られ始めは戸惑う事がある。当時の楽器と演奏法に基づいているとされるこの盤では決して誇張する事が無く、普遍的な幻想が聴ける。
ガーディナーが俗に「優等生タイプ」と呼ばれる所以がここにあるのかと思うと非常に興味深い。
いわば名曲。このブログでは珍しくメジャー曲をレビューだと思います。
大抵の作曲家は演奏家も兼ねることが多い。しかしベルリオーズは違った。後に指揮者にはなったものの満足に引ける楽器がまったくなかった。
幼少時にフラジョレットやギターを弾いたことはあるもののその技量はお世辞にも上手くなかった。周囲のピアノすら弾けないのか、という言葉に対して「ピアノという楽器に束縛されるとかえって自由に作曲ができないことに気づいていないのか」と言い返した。
そして極めつけは先人の音楽に対して無頓着であったという事。厳密に言うとバッハやモーツァルトといった古典派の作曲家をあまり尊敬せず、どれも同じように聴こえたらしい。
それがどう繋がったというと、かの「第九」からわずか6年後に作曲された私小説的な要素を交響曲という形式に織り込んだこの曲は時代を大きく変えることになる。彼の独特の技法は彼自身の音楽理論の欠如と当時までに存在していた音楽に対しての模倣の回避などによる前衛的で異端な彼自身の法則によってもたらされたのである。
標題音楽を代表する本作であるが、これは一人の女優との出会いをきっかけにうまれた曲である。
初演の2年前にパリのオデオン座で行われたシェイクスピアの演劇に出演していた当時の人気女優ハリエット・スミッソンに一目ぼれしたことから始まる。
しかし対して名声のない作曲家に対してあっさり振り返ってくれる訳ではなく一方的なアプローチと化してしまう。
何度もスミスソンに手紙を送り、次第にスミッソンはおびえるようになってしまう。
劇場で男優との抱擁シーンなどになると客席から大きな奇声を発したりと非常識な感情をぶちまけていたこともあり気味悪がれた。
そんな中「失恋した若い芸術家(自分に喩えて)が自殺を企ててアヘン自殺を図ろうとするも致死量が足りず未遂に終わり、奇妙な幻想を見る」という現在にあたる標題音楽を書き上げた。
そのエピソードでは夢を見るも遂に恋人を殺してしまって、自分もギロチンにかけられてしまう。そして「怒りの日」という題のグレゴリオ聖歌の旋律が現れ、自分の葬儀に参列した魔女やらなにやら出てきて仕舞いには殺めたはずの、落ちぶれた恋人を見る。そして異常な興奮と発狂の頂点でコーダを迎える。
というのは聴き馴れた人であれば誰でも知っているのではないでしょうか。
初演後はロシア皇帝のニコライ1世に献呈されている。
そして1833年に憧れのスミッソンと結婚した。
ここまでだったら口元を綻ばせて「やったじゃん!」と言えるだろう。人によってはサクセスストーリーともなりえるかもしれない。
しかし幻想は幻想のまま、美しい姿のまま彼の心の中で生き続けていた方がよかったのかもしれない。
ベルリオーズは、あくまでオフェリアやジュリエットを熱演したスミスソンに惚れていたのであって、実生活でのスミスソンとのギャップに醒めてしまい、かつての熱情は色褪せてしまった。
結婚して10年経って遂に別居。時期的には定かではないがスミッソンは酒びたりの日々を送り、短い生涯を終えてしまいました。
彼女を埋葬して7ヶ月後に再婚。
と、数枚のライナーノーツを見て概要を説明しましたが、違うところがあったら教えてください。
この曲の所持数は8枚。とはいえ中古で手当たり次第に買ったものがほとんどであり、思い入れのないものもあります。
因みに持っているのを載せるとこうなります。浅知恵とお笑いになって結構です。中にはAmazonで拾いきれないものもあります。
広上淳一/RPO(DENON)
コシュラー/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(DENON)
ムーティ/フィラデルフィア管弦楽団(EMI)
レヴァイン/BPO(Grammophon)
ミュンフン/パリ・バスティーユ管弦楽団(Grammophon)
ミュンシュ/BSO(BMGビクターのRCA GOLDSEAL)幻想は1962年ものでカップリングのローマの謝肉祭は1958年もの
これらは一回聴いて押入れ行き・・・困ったものです。よく考えて購入すべきだと思いましたが当時まだ高校生。
本命で買ったのはこれぐらいです(笑)
思わず初回版で買ってしまった。ゴールドディスクがまぶしい。
予想通りゲルギエフなので濃い。やはり好みが分かれる演奏だがこの盤を聴くにあたってモティーフになったスミッソンは美女ではなかったのかなと思わせる。かといってハルサイで見せた野蛮ぽさはそれほど見受けられない。
やたらギラギラしているがクライマックスはまさに圧巻。
蛇足にこの盤の批評家は宇野功芳さんではないため通販サイトのようなやたら押してくるビジネスライクな解釈ではないためライナーノーツも読みやすくあっさりしている。
次いで特徴といえばカップリングが王道のローマの謝肉祭ではなくオリガ・ボロディナ(Ms)を加えた叙情的情景<クレオパトラの死>だろう。
8曲のカンタータの5番目にあたり、「エルミニー」がローマ大賞で2位だったため、大賞受賞のために作曲された。幻想交響曲の前の1829年に作曲された。
しかし結果は失敗。感情露出の激しさや毒蛇を用いて絶命する場面といった過激な要素は当時の保守的な審査員を顰蹙させたとも言われている。
続いてガーディナーの幻想。1991年パリ旧音楽院での録音で、廉価版を所持。
ガーディナーがこのオルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティークを設立する際に、1830年代にパリで活躍したパリ音楽院のオーケストラを一つの基準、あるいは遠い祖先として考えていたという。
アブネックという指揮者が作り上げたこのパリ音楽院のオーケストラは当時のフランスで始めてベートーヴェンの9つの交響曲をすべて演奏した団体で、アブネックはリハーサルに膨大な時間を割いて、何年もかかって全9曲の演奏を成し遂げた。
いってみればガーディナーは自身の団体をアブネックのそれになぞらえることで、ある意味では末裔的な精神に一旦差し替えて決定的に納得のいくまでリハーサルを重ねて、音楽を磨き上げることを目指したといってもいい。
兆度アブネックがフランスで奮闘努力しているときにドイツで目覚しい活躍をしていたのがメンデルスゾーン。
他の盤では聴きなれない音が随所に見られ始めは戸惑う事がある。当時の楽器と演奏法に基づいているとされるこの盤では決して誇張する事が無く、普遍的な幻想が聴ける。
ガーディナーが俗に「優等生タイプ」と呼ばれる所以がここにあるのかと思うと非常に興味深い。
徳永二男と三大名器 チゴイネルワイゼン [CDれびゅ~]
この一枚はこの間の豪華饗宴(http://mirror-channel.blog.so-net.ne.jp/2012-01-28)の時に買ったものです。近所ではお目にかかれないようなシロモノでしたので選ぶのに苦労しました。
偶々菊池さんの演奏終了後の休憩時に用を足そうと思ってホールから出たら一角に十数人の人だかりが出来ていて、当日出演なさったソリストさんのCDが販売されていたのである。
なんというファンサービス!これは行かなきゃ損だろうと期待に胸を膨らませしつつ立ち寄って吟味すること数分に及び、おっ!と思って手に取ったのがこれです。
こういう書き方をすると、まだ青年でいられる気がしますがあしからず。
曲目:
バッハ:プレリュード(パルティータ第3番より)
クライスラー:中国の太鼓
ラヴェル:ツィガーヌ
ドビュッシー:亜麻色の髪の乙女(前奏曲集 第1巻より)
クライスラー:美しきロスマリン
ヴィエニャフスキ:レゲンデ
バッツィーニ:妖精の踊り
ヴィエニャフスキ:スケルツォ・タランテラ
サラサーテ:チゴイネルワイゼン
バルトーク:ルーマニア民族舞曲
サン=サーンス:序奏とロンド・カプリツィオーソ
プロコフィエフ:行進曲(3つのオレンジへの恋より)
サラサーテ:カルメン幻想曲
マスネ:タイスの瞑想曲
徳永二男(vn)梅村祐子(p)
レーベルはフォンテック。
日本を代表するヴァイオリニストと言っても過言ではない徳永さんがN響にいた頃にレコーディングした、まさしくヴィルトゥオジティ全開の演奏。ここでいう名器とは”饗宴”当日でもお弾きなさったストラディバリはもちろんガルネリ、アマティなども含まれている。
購入したきっかけは、昔ジャン=ジャック・カントロフ(vn)ジャック・ルヴィエ(p)のサラサーテのカルメン幻想曲を聴いて以降、欲しい!(CDの曲目として)と思っていた所、ひょんな事で「あるではないか!」と衝撃が走ったから。
曲目>出演者で買う私はまだまだ小童。青い・・・
肝心の中身の方はというと、一般的に頭一つ飛びぬけた名器が奏者の欲求に忠実に応えられるという要素が込められており、それが我々のような素人の耳にも広義的に理解出来るとはいえ、名器だ名器だと囃し立てる重要性には勝手ながら、やや違和感があります。別に私の耳がませてる、もしくは肥えてると言うわけではないのですが。
上手く弾きこなせるという点に関してはセールスポイントでありますし、私も実演を聴いて「これが名器の響き・・・すげえ・・・」とその貫禄を肌で感じましたから。
探究心の賜物でもある名器は実演で映えてもこれはCD。ずっと聴いていると時折くどく感じることがあります。やはり臨場感というものは、とても重大なんだなと生で聴くようになって感じます。
そのくどい、というのは私だけかもしれませんが、超絶技巧曲を延々と聴くのは、心身共に、やや根気のいる事だと思います。何かとモヤモヤした定義で一概に説明するのが難しいです。
しかしながら緩やかで、余韻に浸れる余裕が掴める名曲を挟んでいるあたり、選曲自体はナイス。短い間ながらも箸休めのような時間がもたらされているのは面白い試み。
何だかんだ言いつつもすべてにおいて高水準な仕上がりなので満腹感を得られるのは間違いない。ヴァイオリンに魅せられた方、もしくは曲目から見て近代の曲を聴きなれている方には刺激的な一枚になると思います。(私はバロック音楽の方で弦楽器に魅せられ、しかも近代はほとんど慣れていないので辛いところ。)
シュポア:クラリネット協奏曲第1番、第4番 [CDれびゅ~]
カール・ライスター(クラリネット)
フリューベック・デ・ブルゴス指揮/シュトゥットガルト放送交響楽団
レーベルはORFEO。
シュポア(1784-1859)はあのモーツァルトやベートーヴェンの後輩的にあたる作曲家で、当時はヴァイオリニストであり指揮者でもあった。
同時に顎当ての発明者でもあり始めて指揮棒を使って指揮をした人でもある。
ドイツ人であることからかベートーヴェンとも仲良くなり、第七交響曲や戦争交響曲の初演にも参加している。
初めて聴く作曲家でありながら購入したのはクラシック名盤大全に載っていたというきっかけが強い(昔記事にしたショパンのチェロとピアノのための作品全集やルクーのチェロソナタもそれに近い動機である)
この一枚に収録されている2曲はというと当時の古典派音楽に倣った様な作風にオリジナル色を加えたという印象が強く、音楽性としてはあっさりしていて聴きやすい。
この時代の音楽が一番好きだという方には過不足なく受け入れられると思われる。
メシアン:トゥーランガリラ交響曲 [CDれびゅ~]
曲目:
メシアン:トゥーランガリラ交響曲/ほほえみ(ヤノフスキに捧げる)
ルトスワフスキ:管弦楽のための協奏曲
マレク・ヤノフスキ/フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団
ロジャー・ムラーノ(ピアノ)
ヴァレリー・ハルトマン・クラヴェリー(オンド・マルトノ)
自分がまだ高校生だった頃(当時はブッ○オフで1000円程度の中古CDをやたら漁りまくっていた時期だった)に新品で買った記憶のある数少ないCD。
あの頃は今と違い、何かと困ったらグラモフォンという意識はあったのだが、これしかなかったのだろう。BMGビクターの「RCA 2for1シリーズ」という二枚組2400円と割と安いのが特徴である。
しかし今やフランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団による録音を代表する一枚とも言われており、その実力は侮れない、と言ったところだろうか。
この曲を始めて知ったのは当時のN響アワーによる影響が大きい。
10年前に録音していたNHK-FM「ベスト・オブ・クラシック」の次点でN響アワーもついでに録音した時期があったことで、この曲を知るきっかけになった。
この頃はまだ伊福部昭さんがパーソナリティーで、彼特有のダジャレがお堅いクラシック音楽に対しての清涼剤になっていた良い時期であり、この頃にオープニングで第五楽章にあたる「星の血の歓喜」が流れていたのである。
が、所詮は現代音楽。まともに聴く気にかられず、最近まで放置していた次第であります。
しかしながら今になって吟味すると中々興味深く、今回のネタにさせていただきます。
ライナーノートもメシアンの直筆を和訳したようなプログラム・ノートが載っており、聴くうえでとても参考になったのもポイントが高い。
メシアンの代表的な曲の一つとなったこのトゥーランガリラとはもともとサンスクリット語である。しかし意味は豊富でlila(リラ)とは文字通りにすれば遊びという意味であるが、宇宙に対する神聖な行為という意味における遊びであり、つまり創造の遊び、破壊と再建の遊び、生と死の遊びである。リラは愛でもある。
turanga(トゥーランガ)は時でもある。疾駆する馬のように駆けていく時であり、砂時計の砂のように知らぬ間に流れるときである。また運動でありリズムである。
よってトゥーランガリラとは愛の歌を意味すると同時に、歓び・時・運動・リズム・生と死への賛歌でもある。
長くなるので他の情報は割愛させていただきます。
次のほほえみという曲は実はこのCDが世界初録音で、他にグラモフォンでチョン・ミュンフンによっても録音されている。
元はモーツァルト没後200年にこの指揮者とオケによって初演されている。
あれほどの悲しみや苦しみを味わい、飢えや寒さにさらされ、周囲の無理解に直面し、死を身近に感じていながら、モーツァルトは決してほほえみを絶やさなかった。彼の音楽もほほえんでいる。だから私も、この彼へのささやかなオマージュを「ほほえみ」と名付けることにした。とメシアンは語っている。
ルトスワフスキの管弦楽のための協奏曲はワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督・指揮者のヴィトルト・ロヴィツキの依頼によって作曲され、この管弦楽団のために委嘱されている。
ルトスワフスキ自身はこの曲はやりたいことをやって出来た作品ではないのであまり重要な作品ではないと述べている。
というのも当時のポーランド当局からの政治的な圧迫下で書かれた作品であることや、他に学校やラジオのための多くの機会音楽を書かされていた時期でもあった。
しかし実際は完成に4年も費やしており、彼がこの作品に並ならぬ労力を注いでいたことに違いなく、彼の初期作品の代表作と言われ、また彼の名を国際的なものとした作品でもある。
16~17世紀のフランスとイギリスの世俗舞曲集 [CDれびゅ~]
また超マニアックな一枚です。
曲目:
トワノ・アルボー(1519-1595):「オルケソグラフィー」から
1.ブランル・ドゥーブル~ブランル・サンプル~ブランル・ゲイ~ブルゴーニュ風・ブランル
2.ブランル・シャンパーニュ・クペ:カサンドラ~ピナゲイ~シャルロッテ
3.バスダンス「あなたに楽しみをさしあげましょう」
~トゥルディオン~トゥルディオン
4.パヴァーヌ「私の命を掴んだ美女」~ガイヤルド・トラディトーレ
~ガイヤルド・アントワネット~ガイヤルド(J'aymerois mieulx dormir seulette)
5.地域のブランル:ポワティエ(シャラント地方)、エコス(スコットランド)、トリオリ、パスピエ(ブルターニュ)
6.振りの付いたブランル:マルタ騎士団、洗濯女、馬
7.あなたに楽しみをさしあげましょう(チェンバロ)~
フランスの3つのコラントス(Three French Corantos)(チェンバロ)
~バスダンス「ラ・ロック」~レセルカーダ二番(Recercada segunda)
8.ハーグ(干し草)~仕官
9.モスクエ~カナリー~ブフォン(道化)
プレイフォード(1623-1686):「イギリスの舞踏教師」から(ジェレミー・バーロウ編曲)
10.グリムストック(Grimstock)
11.真夏日に(Upon a summer's day)
12.スペインのジプシー(The Spanish gipsy)
13.ラフティ・タフティ(Rufty Tufty)
14. 灰色のマスク (Gray's Inn Mask)
15. ボビング ジョー(Bobbing joe)
ジャレミー・バーロウ指揮/ブロードサイド・バンド
レーベルは仏ハルモニア・ムンディ。
ここまで解析するのに3時間半かかりました・・・インターネットの情報網でも敵わない、手堅いものだったと思いますし、それでも分からないものに関してはそのまま載せていますのでご了承を。
様々なサイトをサーフィンしていくうちに地道に和訳する作業は、記事の内容を考えるより難しいです。
そして翻訳の結果、抜粋だったんだなと・・・少し残念です。
オルケソグラフィーは、フランスの聖職者トワノ・アルボーが出版した踊りに関する教則本で、その中身は中々面白いものがある。
カプリオールというその道の素人さんがアルボーと対談しながら書き綴られているのが印象的。
当時流行した舞曲のほとんどがこの書物に記されている。
他のサイト様に行くともっと詳しい事が書かれていますが、数々のサイトの良い所取りしてコピぺして寄せ集めた記事にはあまりしたくはないのでこのあたりでお願いします。
時代的にはルネサンス~バロックといっても差し支えがなく、当時流行した舞曲が聴けるという点では貴重でもある。
どの時代の曲にも当てはまらない特異な雰囲気を味わえる他、古楽器による演奏でハデさは抑えているものの妙に味わい深く、双方が相俟ってとても気に入っている。
曲目:
トワノ・アルボー(1519-1595):「オルケソグラフィー」から
1.ブランル・ドゥーブル~ブランル・サンプル~ブランル・ゲイ~ブルゴーニュ風・ブランル
2.ブランル・シャンパーニュ・クペ:カサンドラ~ピナゲイ~シャルロッテ
3.バスダンス「あなたに楽しみをさしあげましょう」
~トゥルディオン~トゥルディオン
4.パヴァーヌ「私の命を掴んだ美女」~ガイヤルド・トラディトーレ
~ガイヤルド・アントワネット~ガイヤルド(J'aymerois mieulx dormir seulette)
5.地域のブランル:ポワティエ(シャラント地方)、エコス(スコットランド)、トリオリ、パスピエ(ブルターニュ)
6.振りの付いたブランル:マルタ騎士団、洗濯女、馬
7.あなたに楽しみをさしあげましょう(チェンバロ)~
フランスの3つのコラントス(Three French Corantos)(チェンバロ)
~バスダンス「ラ・ロック」~レセルカーダ二番(Recercada segunda)
8.ハーグ(干し草)~仕官
9.モスクエ~カナリー~ブフォン(道化)
プレイフォード(1623-1686):「イギリスの舞踏教師」から(ジェレミー・バーロウ編曲)
10.グリムストック(Grimstock)
11.真夏日に(Upon a summer's day)
12.スペインのジプシー(The Spanish gipsy)
13.ラフティ・タフティ(Rufty Tufty)
14. 灰色のマスク (Gray's Inn Mask)
15. ボビング ジョー(Bobbing joe)
ジャレミー・バーロウ指揮/ブロードサイド・バンド
レーベルは仏ハルモニア・ムンディ。
ここまで解析するのに3時間半かかりました・・・インターネットの情報網でも敵わない、手堅いものだったと思いますし、それでも分からないものに関してはそのまま載せていますのでご了承を。
様々なサイトをサーフィンしていくうちに地道に和訳する作業は、記事の内容を考えるより難しいです。
そして翻訳の結果、抜粋だったんだなと・・・少し残念です。
オルケソグラフィーは、フランスの聖職者トワノ・アルボーが出版した踊りに関する教則本で、その中身は中々面白いものがある。
カプリオールというその道の素人さんがアルボーと対談しながら書き綴られているのが印象的。
当時流行した舞曲のほとんどがこの書物に記されている。
他のサイト様に行くともっと詳しい事が書かれていますが、数々のサイトの良い所取りしてコピぺして寄せ集めた記事にはあまりしたくはないのでこのあたりでお願いします。
時代的にはルネサンス~バロックといっても差し支えがなく、当時流行した舞曲が聴けるという点では貴重でもある。
どの時代の曲にも当てはまらない特異な雰囲気を味わえる他、古楽器による演奏でハデさは抑えているものの妙に味わい深く、双方が相俟ってとても気に入っている。














ヴェラチーニ:フルートと
通奏低音のためのソナタ集
INT_221.143